がテーマ: 回想

記憶

車で
少し外に出かけたとき
助手席で母が泣いた
だからその時は
父の
偉かったところなんかを
語り合ってみた

父は
病床にあっても
絶えず母や私の身を
気遣っていたし
決して周りのだれかに
辛く当たったりすることも
わがままを口にすることも
なかった

言い出したら
強情だけど
この十年くらい
ほとんどのことを
母が言うとおりに
子供みたいに
素直に受け入れていた

母が交通事故に遭って
長く入院していたあいだも
文句ひとつ言わず
せっせと病院に通いながら
買い物や家事を立派にこなし
私の面倒まで
よく見てくれた

 《優しい 人 だった なぁ
  もう 少し 母と
  過ごせる 時間が
  あればよかったのに》

そう思ったが
口には出さずに
私はそのまま黙りこんだ
母も
黙りこんで
遠くを見ていた

結び目(亡き父に)

最後に入院する少し前
力無げな声で
「疲れたから休んでいるんだ」と
座り込んだまま答えたあなたの姿が
私の中によみがえって
静かに微笑みかけてくれるけれど
私はあなたの
そんなにも優しい表情に
いつになったら
微笑み返せるんだろう

限りある時間のひととき
小さな庭木の一本にも
あなたは視線を惜しまず遣って
本当はしゃがみ込むのもつらかったくせに
だれもがかじかんで身をすくめる
やりきれない木枯らしの中
日に日に頼りなくなってきたその手を
きっと自分でもじれったく
ぎこちなく動かして
ひとつひとつ丹念に
くくりつけていったんだろう
冬の邪な風が荒っぽく吹いても
倒れたりなどしてしまわぬように
きちんと添え木を立てては
頼りない裸の枝ごとに
紐をゆるやかに巻きつけ
丁寧に結び目を
こしらえたのだろうあなたの手
いつでも決まって
私の生きてきた傍らで
あなたはそんなふうに
いてくれたんだ

初めて買ってもらった
野球のグローブを取り上げられ
仲間たちにいじめられていた
夕暮れ時の広場
思いがけず
現れたあなたの顔を見つけるなり
こらえていた涙が急に溢れだし
遮二無二
あなたの懐に駆け込んで
声を上げて泣きじゃくった
幼い日の私
あなたを思えば
そんな遠くにまで
理不尽なほど
瞬時に戻って行ってしまうんだ

結び目はどれもこれも
切ないほど控えめに
置き去りにされたまま在り続ける
そのひとつひとつ
無造作にあなたらしくて
それだから
ひたぶるに泣きたくなってしまうんだ

手紙

純粋な少女のくれた手紙を
古いノートの間に見つけた
私の書いた小さな詩を
とても素敵だと言ってくれたのだ

ためらいがないどころか
あんまり素直に心を打ち明けていて
私はなんだか今にも
優しい気持ちを誘われてしまう

あの娘が
どんな気持ちで手紙をくれたのかは
あの時にだって分かっていた
どんな気持ちで暮らしていたのかを
悲しいくらい私は知っていた

私の手元には
少女の純粋が今も残って
一つの勇気を与えてくれている
あの娘の手元にも
私の書いた詩が
まだ あるのだろうかしら

宛名書き

年賀状の宛名書きを
パソコンで手伝ってやるのは
ここ数年の私の習い

昨年の住所録を印刷して
母に渡してやると
一年前に頂いたお賀状の束と
ひとしきり時間をかけて
照らし合わせている

しばらくすると
私の部屋にやって来て
出す人とそうでない人
小さな印でよりわけた住所録を
遠慮がちに私に差し出す

私が受け取ろうとのぞき込むと
「この先生、死んじゃった
 いい先生だったのに」
指先で一つの名を押さえてつぶやくと
母は急に涙ぐんで
それなり逃げるように
背中を丸めて部屋を出ていく

乙女なりし母の
涙をすすりあげる声が
なおも静かに聞こえつづける

無題

生涯の
思い出は
さりげなく
ここにある
ものだ

奈津子

 「奈津子は初めからいなかった」
 そう言っても
 何も差し支えはないんだが……

子供らに人生なんかを説いて
僕の人生が終わってゆく
終わってゆく

 馬鹿げちゃいるが もしもの話
 誕生したその時
 終わっていたと仮定したら
 僕という存在は
 どこへ向かって行ったのだろうか

奈津子の遺影が
仏壇の中から
前触れなく消えた
そういう日があった
古びた小さな木の額ごと
白黒写真が消えていた
確か
僕が高校生だった頃だ
その子のために用意された
白い産着に包まれて眠る
奈津子という名の
赤ん坊の写真が消えた

(奈津子というのは
 僕の姉として存在したはずの
 一度も存在しなかった人の名だ)

僕はそのまま
取り立てて聞こうとも
しなかった
そのまま
奈津子の写真が戻らない
それならそれで
きっといいのだと思ったからだ

 僕の人生が
 今 あるように
 奈津子の人生は
 あるはずだったろう
 父や 母の
 人生があるように
 奈津子の人生は
 あるはずだったろう

僕は小さいときから
姉さんが
確かにいるような気でいたんだ
馬鹿げちゃいるが
僕の人生と一緒に(僕だけじゃない?)
奈津子の人生はあったのだ

 ……そういう気もする
 今だから言えるんだが

夏休みで田舎に帰った僕たちが
「ひと夏に一度そこで河童が足を引く」
とか言う神秘めいた噂をしながら
冷たい小川の淵で毎日泳いでいた頃だ
あれはまだ
地球の温暖化なんか
だれも言わなかった頃だろう

月の出ない真っ暗な夜
だれかが持ち出した懐中電灯の明かりを頼りに
蛙たちの控え目に鳴く響きの中
いとこたちと一緒に僕は冒険に出た
今思えばあれはたぶん
流星群が来ていたのだろう
次々と星が流れた
見上げたまま僕たちは黙っていた
懐中電灯も消していた
互いの顔も見えない闇の中に
僕たちは動かなかった
僕は顔を空に向けたまま
目を上下左右に動かして
足元から切れ目なく繋がっている
真っ黒な宇宙を見た

蛍が飛んできた
はるか静かに
淡く涼しい光が
ゆっくりと繰り返され
僕たちの側を流れた
それほどの闇の中で
蛍がだれかにぶつかるのではないかと
要らぬ心配をしながら
確か成虫になってから蛍は
何も飲み食いしないまま死ぬのだったと
僕は思い出していた
そしてそれこそ
僕は自分の呼吸する音なんかよりも
確かなる生というものを意識したのだ

あれから
ときどきのことなんだが
僕には
蛍ばかりではない
そこらにいる他の虫たちのお尻さえ
ほうほうと光りを放ち始めるのではないかと思われたものだ
あの時
流れる宇宙的時間の中で
さりげなく生命を灯してみせた
蛍はどこ?
逃がしてしまったきりそれきり見ない

少女

夏といえば
爽やかな色の
水玉模様のワンピースを着た
少女を思い出すのはなぜだろう
そのくせ だれということもなく
顔なんかどうでもいいと考えながら
十歳くらいの少女の姿を思い浮かべている
しかもだ
やっぱりどこのだれかしらと不思議に思っていて
しきりに昔知っていたその年頃の少女を
思い出してみるんだが
ピンと来ないままたいがい
別のことを考え始めてしまううち紛れてしまうのだ

ふん

ふん踏んづけちゃったら くさいよ
ふんそのままにしないでよ
飼ってる人が片付けてよ
近くに水道があればいいけどね
なかったら
ちり紙でふいてもふんくさいのがとれない
新しいやつだととくに

すべり台

カツカツカツツ 階段を上り
そのてっぺんにある鉄のアーチに
ゴツンとぶつけてイテテと思ったが
だれも気づかなかったみたいなので
何もなかったふりですべり台を滑った
あとからさりげなく
頭をさすったらたんこぶできていた

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