雫(しずく)

旧道のトンネルの中は
いつも暗く
ひんやりとしている
まるで永遠のような
その静寂の中を
ひときわ冷たい水の
雫の落ちる音が
響くとき
響くとき
少しだけ
時間の流れがひずんで
後戻りするんだが
後戻りするんだが

祈り

捧げられた「祈り」の分だけ
人々の生涯は
確かに幸せになって
きたのだろうか

信仰というものが
ろくにないんだから仕方も無いが
僕の場合にはどうにも
祈りという祈りが
いつもいつも
無力だった気もする

祈りというのは
限界にまで至ったときの
無意識の呟き
のことかしら

全力の果てに絶望がつくりだす
まじないのことば
のことかしら

言葉にもならぬまま昇華する
涙の結晶を天に送る
自然のしぐさ
のことかしら

いずれにしても
僕のはどうにも
効き目がないんだ

水平線

水平線がまあるく
どうやったら見えるんだろう
まだ本当には
そう見えたおぼえがないんだ
ないしょだけど

奈津子

 「奈津子は初めからいなかった」
 そう言っても
 何も差し支えはないんだが……

子供らに人生なんかを説いて
僕の人生が終わってゆく
終わってゆく

 馬鹿げちゃいるが もしもの話
 誕生したその時
 終わっていたと仮定したら
 僕という存在は
 どこへ向かって行ったのだろうか

奈津子の遺影が
仏壇の中から
前触れなく消えた
そういう日があった
古びた小さな木の額ごと
白黒写真が消えていた
確か
僕が高校生だった頃だ
その子のために用意された
白い産着に包まれて眠る
奈津子という名の
赤ん坊の写真が消えた

(奈津子というのは
 僕の姉として存在したはずの
 一度も存在しなかった人の名だ)

僕はそのまま
取り立てて聞こうとも
しなかった
そのまま
奈津子の写真が戻らない
それならそれで
きっといいのだと思ったからだ

 僕の人生が
 今 あるように
 奈津子の人生は
 あるはずだったろう
 父や 母の
 人生があるように
 奈津子の人生は
 あるはずだったろう

僕は小さいときから
姉さんが
確かにいるような気でいたんだ
馬鹿げちゃいるが
僕の人生と一緒に(僕だけじゃない?)
奈津子の人生はあったのだ

 ……そういう気もする
 今だから言えるんだが

たぶん

世界中に毎日
絶滅している生物が
たくさんあると聞くが
その終わりはきっと
人知れず
あっけないものなのだろう
終わってみれば
結構あっけないものなのだろう
終わったんだか
何だか
よく分からないような
ささいな
出来事なのだろう

亜熱帯の森林が伐採され
地球のオゾン層が破壊され
物言わぬ海に
最後のツケは回され

人間の横暴を責めてみるのも
何だか絶望的に思われるばかり
今さら原因が何かと
問い直してみたところで
たいした手だては見つからない
みんな
自分のことだけで
精一杯なのだから

「たぶん それでいいんだよねえ」

そんなふうに
大概のものは
結構あっけなく終わるものなのだから
人の人生が
終わるときであっても
そしてたぶん
人の歴史が
終わるときであっても

「たぶん それでいいんだよねえ」

いいわけないじゃないか!
と
だれでも口を揃えて言いはするだろうが

霙(みぞれ)

霙の中を
卒園式帰りの母子が
傘をさして通り過ぎます
着飾った若いお母さんは
子供の制服の胸にあるリボンと
ちょうど同じようなピンクの
きれいなスーツを着ているのです

冷たい霙は
傘の上にもうっすら積もって
子供の黄色い傘には
ちょっと重たそうに思われるのですが
どうやらへっちゃらみたいに
ぜんぜんお構いなしに
子供は飛び回って歩くのです

茶色い雨傘の中で
それを微笑ましく眺めながら
だれが立ち止まってみても
何者も気付きはしない!
そういう春の昼下がり
冷たい霙は
一向に降り止みません

冷たい霙は
私の上にも積もっているのかと
そうやって思い至ってみると
それは何だか結構うっとうしく
やけに重たく
道端でふと
何だか泣きたいような気分になって
けれどまた
もう一度歩きだすより他に
私にはなかったのです

東京特許許可局

誠に月並みですが
東京特許許可局
よく言われることなんですけれど
東京特許許可局
本当のところ私どもとしましては
東京特許許可局
なにぶん戸惑うことばかりなもので
東京特許許可局
時代時代と諦めればよさそうなものを
東京特許許可局
やりたい人がやればいいんでしょうが
東京特許許可局
お詫びといっては不具合もありますわけで
東京特許許可局
我慢がならぬと怒ってみたところで
東京特許許可局
結局のところにっちもさっちも行かず
東京特許許可局
鴬が鳴きます
東京特許許可局
鴬が鳴きます
東京特許許可局
鴬が鳴きます
東京特許許可局
東京特許許可局
東京特許許可局
・・・・・・

もしもの決意

尊敬できない在り方を
もしもしなければならなくなって
そのときたとえ渋々でも
自分をすっかり明け渡すような
最低のことにでもなったなら
僕は是非とも願い下げです
この世にそうやってまで存在すること

神様と仏様とお母様に申し出て
潔く辞退しなけりゃ居られません

僕は是非とも願い下げです
自分がちっぽけで
だれからも尊敬されないのは
それはそれで平気だけれど
たったひとり
自分にくらい尊敬される
生き方を選びたいので
死に方を選びたいので

ひまわり

少年には見えたかしら。

太陽を乗せて自転車は風となり
季節は秋を急ぎ
少年は振り向かない

ひまわりはただ
そっと

思うばかりだ

夏休みで田舎に帰った僕たちが
「ひと夏に一度そこで河童が足を引く」
とか言う神秘めいた噂をしながら
冷たい小川の淵で毎日泳いでいた頃だ
あれはまだ
地球の温暖化なんか
だれも言わなかった頃だろう

月の出ない真っ暗な夜
だれかが持ち出した懐中電灯の明かりを頼りに
蛙たちの控え目に鳴く響きの中
いとこたちと一緒に僕は冒険に出た
今思えばあれはたぶん
流星群が来ていたのだろう
次々と星が流れた
見上げたまま僕たちは黙っていた
懐中電灯も消していた
互いの顔も見えない闇の中に
僕たちは動かなかった
僕は顔を空に向けたまま
目を上下左右に動かして
足元から切れ目なく繋がっている
真っ黒な宇宙を見た

蛍が飛んできた
はるか静かに
淡く涼しい光が
ゆっくりと繰り返され
僕たちの側を流れた
それほどの闇の中で
蛍がだれかにぶつかるのではないかと
要らぬ心配をしながら
確か成虫になってから蛍は
何も飲み食いしないまま死ぬのだったと
僕は思い出していた
そしてそれこそ
僕は自分の呼吸する音なんかよりも
確かなる生というものを意識したのだ

あれから
ときどきのことなんだが
僕には
蛍ばかりではない
そこらにいる他の虫たちのお尻さえ
ほうほうと光りを放ち始めるのではないかと思われたものだ
あの時
流れる宇宙的時間の中で
さりげなく生命を灯してみせた
蛍はどこ?
逃がしてしまったきりそれきり見ない

All Rights Reserved by Sanami Eda

Social media & sharing icons powered by UltimatelySocial