奈津子

 「奈津子は初めからいなかった」
 そう言っても
 何も差し支えはないんだが……

子供らに人生なんかを説いて
僕の人生が終わってゆく
終わってゆく

 馬鹿げちゃいるが もしもの話
 誕生したその時
 終わっていたと仮定したら
 僕という存在は
 どこへ向かって行ったのだろうか

奈津子の遺影が
仏壇の中から
前触れなく消えた
そういう日があった
古びた小さな木の額ごと
白黒写真が消えていた
確か
僕が高校生だった頃だ
その子のために用意された
白い産着に包まれて眠る
奈津子という名の
赤ん坊の写真が消えた

(奈津子というのは
 僕の姉として存在したはずの
 一度も存在しなかった人の名だ)

僕はそのまま
取り立てて聞こうとも
しなかった
そのまま
奈津子の写真が戻らない
それならそれで
きっといいのだと思ったからだ

 僕の人生が
 今 あるように
 奈津子の人生は
 あるはずだったろう
 父や 母の
 人生があるように
 奈津子の人生は
 あるはずだったろう

僕は小さいときから
姉さんが
確かにいるような気でいたんだ
馬鹿げちゃいるが
僕の人生と一緒に(僕だけじゃない?)
奈津子の人生はあったのだ

 ……そういう気もする
 今だから言えるんだが

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