奴の現在の在り方を、例えば「忘れられただるまさん」と言うことができる。人々の幸せを祈りながら、ただじっと、手も足も出せないまま黙っていることより、仕事はない。その上、いつの間にかだれもがその存在を忘れている、いつまでも両目を入れてもらえない、そういうだるまさんが、よくある、それだ。
また、例えば「ワンマンバスの車掌」とも見ることができる。既に役割は無くなっている、今の状況を分かりながらも、お客さんとは違うだけの気持ちを持っているのだから、質がよくない。結局のところ、お客さんと同じように座って、終点までバスに揺られるよりない。もう、役割は既に終わっているのだ。お客さんならば、目的地に着くためにバスに乗っているわけで、それでいいと言えるんだが、目的とすることを何もしないまま終点に降り立った車掌は、ようやく、自分の存在価値を、考え始める。
いつの時代も、時の流れとともに、必然的に不要のものとなり、歴史の彼方へと、忘却の彼方へと、いつの間にか遠ざかるものがある。そういうとき、ほとんどのものはひどくさりげなく、消え、あまりに静かだ。それが引き際の理想、だから、達人のように、奴もそういう風にやってみたかったが、そこまで自然にはなれなかった。どんどん廃れる自分を、そこまであきらめきれない、奴は達人にはなれなかった。
そうして、ほこりを被っただるまさんは、というと、ついに旅に出る、決心をした。一方、不器用な車掌さんは、というと、ついに転職の、決心をした。ちょっとばかり、遅すぎる決心ではあるのだが。
考えてみりゃ、滑稽な話、それでおしまい。
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